和風家庭料理と酒の店 虎墨
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僕のきた道
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修行時代

高校二年の時に進路の懇談があった。モノ作りが好きなサッカー少年は職人に憧れ、大学受験する友人を横目に調理師学校へ進みミシュランの世界と出会った。ポールボキューズ・アランシャペル・トロワグロ・ロジェベルジュ・ミシェルゲラール・ジョルジュブラン・ジャックマクシマム・・・フランスで綺羅星の如く新鋭シェフが乱立しヌーヴェルキュイジーヌの嵐が吹き荒れ、日本ではフランスから凱旋した関東の石鍋氏( Bistro ロティウス)関西の原氏( Bistro ヴァンサンク)などが脚光を浴び、日本にフランス料理が根付き始めた時代だった。いつかフランスで働く夢を見ながら、辞書を片手に鍋磨きと皿洗いに汗を流していた。しかし、いかんせん語学ができない、フレンチのソースの何が美味しいのか分からない、勤め先の顧客は一部の高額所得層に限られていた。納得できないと体が動かない性格もあり、フレンチの道を諦め身の丈に合った「大衆洋食」の土俵に移った。当時の飲食従事者には目標を持たず惰性で働く者が多かったが、独立する明確な目標があったので掛け持ちのアルバイトで接客やマネージメントを独学しながら、料理や経営にまつわる本を読み漁った。当時僕が憧れた店は、世田谷の地中海料理「DOMANI」代官山のタヴェルナ「FLAGS」下北沢や経堂の大皿おばんざいの元祖「くいものや楽」など、どの店もオープンキッチンで活気に満ち溢れていた。給料を殆ど全額財形貯蓄して若い時期の欲求に箍をかけ、服・車・恋愛など全て独立のためと背を向けた。前略おふくろ様の「さぶちゃん」的生き方に憧れていた。27歳気が付くと六百万あまりの資金が貯まっていた。

 
会社経営時代

一人の職人が独立して自分の店を持った。独立自体が人生の目的だった。どんな場所であろうと繁盛させてやる!などと思い上がっていて、立地など考えず出店したが現実は厳しかった。一日16時間働いても数万円しか売れなかった。出来る事は何でもやった。修行中覚えた料理を自分流にアレンジした。お客様にひざまづいて接した。おしぼりを何度も取り替えた、食後には口直しのサービスフルーツを出した、食中の水を冷たいお茶にした、食後には熱いお茶を出した、卓上に一輪挿しを活けた、ビールは三度注ぎにこだわり泡の状態に細心の注意をはらった、ちょっとでも遅れた料理は代金を頂かなかった、お見送りは車が見えなくなるまで深々と頭を垂れた・・・ 気づくと数々の名物料理が生まれ町一番の繁盛店になり行列ができて、入りきれないお客様の為にキャンプ用の机やイスを歩道に出して警察に怒られた。修行中の後輩が次々入社してスタッフが増えた。社是・社訓を掲げ「お客様は神様だ」と諭し社員への躾が厳しくなりいつも怒鳴っていた。僅か14坪の店だが月間四百万売れるようになり、独立して繁盛させる夢がかなった。だが・・・虚しかった。ひとつの目標を達成した虚脱感を感じた。そんな折、憧れの料理人・三國清美の「MIKUNI EYES」なる壮大なビジョンを雑誌で見て感銘を受け店舗展開に乗り出した。地元中部の経営者の研修会にも参加した。人生の目的が独立から企業化になった。飲食業の地位向上・飲食従事者の待遇向上を掲げていたが、その源泉は修行時代や独立間も無い頃人並みの生活が出来ず世間から認められなかったことへの小さな反抗だった。感性の赴くまま進みながらも都心部のテナント店舗は行き詰まった。救いを求めるように外食を産業と捉える諸先輩の後を追って郊外型店舗へ順次移転して、一時は郊外型パッケージで企業化する夢を追った。企業化には1・3・5・10の壁があるとよく言われるが、3の壁を越えようと足踏みしている間に名古屋近郊の郊外型店舗の「出せば売れる」時代は終わり、個店の時代・店主の顔が見える店の時代の足音を僕は日増しに感じていた。経営的合理性と職人的美意識の狭間で神経をすり減らし、経営にまつわる長年の藻が重く肩にのしかかり、何が正義なのか分からくなくっていた。創業時ひたすら料理の事を考え目の前のお客様の笑顔を願って無心に働いた日々が懐かしかった。紆余曲折あって18年間活動した会社とスタッフに別れを告げた。

 
虎墨からの道

45歳、社長業と称する長年のデスクワークで身体が鈍っていた。筋力は落ち、関節や筋が思うように曲がらなかった。さる工場倉庫で荷物の積み降ろしをした。腰・首・腕・膝・・・順に異常をきたし歯茎も炎症をおこし膝に水がたまった。先が見えないその日暮らしの生活を友人や師匠筋に支えられながら5ヶ月、やっぱり自分には飲食しかないと感じていた。十分ではないがある程度回復した時復帰を考えた。これからの半生賭けても良い職場にしたかった。今の等身大の自分をぶつけられる店〜フレンチに憧れるが大衆洋食で修行を積み、独立して企業化を志すが限界を悟り、多くの方のあたたかい心添えに支えられた。また四十を過ぎて産まれたこの日本の食文化・おもてなしの精神の素晴らしさをしみじみ感じていた。今の虎墨はそんな僕そのもの。何かの為などという大それた事でなく、ただ毎日店に立って誰かに喜んでもらえる仕事がしたかった。僕が動けなくなった時「虎墨」はなくなる。企業は人の上に人が屍を重ねて永続させるものだが、この「虎墨」は僕が動ける数十年しか存在しない。贅沢かもしれないが、今後は精進しながらも自分の体をいたわって、一日でも長くこの虎墨の歴史を刻んでいきたいと願う。

2005年12月
 
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